兄弟比較は意識しないとやめられないトラップ
一人目が生まれた時、何もかもが新発見で、今日メリーを目で追っただとか、最近ベビーバスを掴むようになったとか、ちょっとした変化が毎日の夫との会話だった。
二人目が生まれると、目新しい毎日の発見は「一人目との違い」になる。長男はほんと寝なかったけど、次男は一人で寝れて助かったとか、目に泡が入ると長男は泣き叫んでたのに次男は泣かないねぇ、次男の方が肝が座ってるのかな?とか、長男はあんまり笑わなかったけど、次男は反応がいいから人たらしになるかなーとか。
どっちかを非難してるわけじゃなくて、子供を二人しか育てたことのない夫婦にとって、単に両者の違いが発見でありその日のトピックスってだけである。違った点だけだと会話が終わるしつまらないから、さらに将来の性格予想も上乗せしてるだけなんである。今日の出来事から未来に想いを馳せて会話を楽しんでるだけなのである。
そう、私たちからしたら、それだけのこと。
だけど、子供たちが言葉の意味を理解しはじめた時、そんなたわいない夫婦の会話はきっと「兄弟と比較されてる」「優劣をつけられてる」と感じるだろう。
実際、夫婦の共通の会話の多くを占めるのは子供の話である。悪意がある発言は、言葉が喉を通った時にざらっとした感覚を伴い嫌でも意識することになるが、これは単なる夫婦共通の会話なだけだから全く悪気がないだけに、気付かずに息を吐くように発言し、夫婦が知らないところで子供達を毎日少しずつじんわりと傷つけることになる。
よく男友達が、兄と比べられて辛かったから仲が悪い、とか、反発して引きこもったとか、そういう話を聞くたびに、その親はアホだなーなんでそんなことしちゃうかな、そんなことしたらねじ曲がるに決まってるじゃん、と思ってたけど、そこにはこういうカラクリがあったのか、と我がことになって初めて気付く。
今はまだ長男は2歳だから理解してないかもしれないし、少しは感じてるかもしれない。けど今日もそんな話を夫としてしまった。それは二人の成長や性格の違いを夫と共有し成長を喜び合い育児を楽しんでるだけなんだけど、そこにこんな落とし穴があったとは。
比較されて健やかに育つ子はいない。
誰だって、大人だって比較なんてされたくない。
それがまだ自我も確立してないあやふやな輪郭しか持たない子供が、最も信頼する両親から比較のシャワーを浴びせられたら、撥ね付ける鎧さえまだなくダイレクトに心を傷つけるだろう。それが異性ならまだ性差というだけで終わるかもしれない。だって男と女は違うものでそれは自分のせいじゃない、と思える。だけど同性の兄弟姉妹はその逃げ道がない。
もしかしたら会話の多い夫婦ほど陥りやすいこのトラップは、意識しないとやめられない深刻な問題かもしれない。