No More 育児!〜母親失格者の本音〜

0歳2歳の息子2人、働く母親失格者の本音。母親像に理想がある方は気分を害すので見ないでください!

母親におしつける聖母マリア神話

勝手にそう名付けちゃってますが、どういう意味かっていうと、

「母親は自己犠牲を伴う無償の愛で子供を愛すべき。」

という、聖母マリアのような存在であることを社会は強要してるように思えるんです。

母親になったら、四六時中常に子供のそばにいないとダメ。すぐ保育園なんて可哀想。離れたいなんて思っちゃ失格。自分の全てを犠牲にしてでも愛すべきでそれができないのは母親失格。どんなに泣いても自分の子なら寝ずに毎晩あやし続けられるものでしょ?夜飲みに行きたい?ありえない!子供をなんだと思ってる!という風に。

私のように、可愛いと思えないなんて言ったものならバッシングの嵐。
「だったら子供産まなきゃいいのに」なんて言われたって、そりゃ生涯愛せないと産む前にわかってたら産みませんよ。子供に殺された親たちは、そんな自分の未来がわかってたら産んでないでしょう。けどその人たちはむしろ子供が養ってくれる未来を想像してたかもしれないし、私だって今こんなでも三年後には愛せるようになってるかもしれないし、未来のことはわからないよね?それなのに「今」という一点だけの、しかも妊娠出産育児で疲れ切ってる時にポロリと出たぼやきを取り上げて大非難するこの空気感。ほんっときらい。

しかもなぜか、それを言うのがたいてい女じゃないですか?

同じプロセスを体験し苦しんできたよね?気持ちわかるよね?
それとも生まれた瞬間から可愛くて仕方なくて、どんなに喚こうが暴れようが許せちゃう心の広いできたお人なんでしょうか。でもそんなできた人だったらわざわざ他人のこと批難しないよね?
もしくはよっぽど育てやすいお子さんを持ったのでしょう。それか、すでにお子さんは大きくて過去の辛さを忘れてしまったのでしょうか。ほんと、不思議。

いやむしろ、自分がその無言の抑圧に耐えてきたのだから、あんたも耐えなさいよ、という女性特有の横並びになりなさいよ感情論な気がしないでもない。私はそんなこと言わずに黙って耐えてきたのに!きぃー!みたいな。だって私の周りの理性的な人達は、絶対そんな批判しないもん。

中にはナチュラルに育児や専業主婦を楽しんでる生まれ持っての母親向きな人もいるみたいだけど、私の育児真っ最中の友人に本音を聞くとやっぱり大変だという方が多い。でもそれは、先に私が本音を言わないと言ってくれない。つまりそれくらい世の中的には憚られる発言ってことなんだと思う。あと育児の先輩は、過去を振り返って懐かしそうに、そうそう大変だったわぁと笑って言う。ほんと人間ってうまくできてるよね。ああ、早くそんな悟りを開ける境地に達したい…。

とにもかくにも、世の中の母親を苦しめることの一つに、世の中からの無言のプレッシャー、聖母マリア像の押しつけ、があるような気がする。

いやそういう私もね、産む前は自分の子供ってものにピンとこなくて、どれくらい愛せるかとか未知数で、でも、産まれたら母性ってものがにょきにょきぐんぐん生えてきて、それこそ聖母マリアのような愛が身体中からすんごい溢れてきて、ああっ、愛しくて仕方ない!ってなると思ってたのよ。彼氏のことでさえこんなに愛しくて仕方ないんだから、自分の子供だったらどんなにか豊潤な愛が溢れてきて幸福なんだろう、と思った時もある。

でも現実は違った。
私は聖母マリアになんてなれなかった。お腹の中で十月十日育て、頑張って産んだのに一歩たりとも近づけなかった。母性なんて欠片も見当たらなかった。むしろ自分はなんて自己中で傲慢な人間なんだろうと嘆いたりもした。結局大切なのは自分なのか?と。

でも今思う。そりゃ、自分が大切だろ。自分を大切にできなきゃ誰も大切にできない。そのうえで、子供を愛し育てるのだ。そういった意味で、心身ともに回復して手が離れる4歳くらいから、子供への愛情が違った形に、それこそ聖母マリアに半歩くらい近づけるのではないか?と期待している。それに、そもそも容易に近づけないからこそ、聖母マリアがあれだけ崇められてるのだろう。

私の子供の頃は、泣き声を聞いた覚えがない、と父に言われるくらい大人しい女の子だった。転んでも泣かずに一人で立ち上がっていた。人に頼れないのは生まれ持った性格だったんだなぁ。そしてそんな性格ゆえに、お遊戯会で聖母マリアの役をやった。理由は、ただ黙ってそこに座ってればいいから私にもできる、という理由。そんな私が、中身も聖母マリアに近づけるのは、もしかしたら臨終の瞬間なのかもしれない。